コラム 裏元町HISTORY その3
坂道
坂道あたり
文豪芥川龍之介が学生の頃、友人の原 善一郎に手配してもらったサロメのチケットを手に仲間と「七時何分かに横浜に着いた。」そこから徒歩で山手に向かい「何処かの坂にかかると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたった一つ」ある花屋らしき店の前を通りゲーテー座に到着した。芥川がどの坂を登ったかは不明だ。
元町はかつて堀川の向こうが異国で、背にする丘もまた異国であった時代がある。芥川が登ろうとした”異国への坂”の登り口を歩いたのが1912(大正元)年の11月9日、すでに夜になっていたので景色は見えなかっただろう。
「山手の住民にとって、買物をするとは、坂道を上ることである。元町 商店街を動脈とすれば、そこから、何本もの細い血管が、緑の丘にのび ている。そんな血管の一つが代官坂である(市民グラフヨコハマ)」と荻野アンナは”異国への坂”の日常を表現した。
「十九世紀のイギリス人は同じように町を海岸通(バンド)と山手(ブラフ)に分けて使った。仕事と団欒、労働と閑暇、喧騒と静寂をその二ヵ所に振り分けた(徳岡孝夫)」あたりは小説家中島敦も教員時代に通った汐汲坂がある。
渡辺はま子も坂を踏みしめたこの坂には中島の記念碑が残されている。中島敦といえば、女優原節子(会田昌江)を教えた新資料が発見された記事が新しい。「モトマチの通りをブラつき、お代官(坂)から北方を通って本牧の牛込までテクッたのが日課のようだった。」と坂道通いを山口辰雄は横浜三街物語に残しているように坂道あたりにはいつもドラマがある。
エッジの効いた坂道
この街は裏通りを曲がると様々な坂道の風景が見える。
西坂と呼ばれた二手に分かれる坂は一つがフェリス坂、もう一つが乙女坂とも呼ばれ丘に連なる女学校を代表している。
曲がった途端にめまいがするほどの直線的な急坂が迫る汐汲坂。緩やかなカーブを描く代官坂と、一瞬個人宅の入口のような百段公園に繋がる高田坂の階段。深い森に誘われるような貝殻坂。坂道の風景はそれぞれ個性的なエッジが効いている。エッジとは「端々がシャープで気が利いているさまなどを意味する表現。」「縁(ふち)・端(はし)」または「刃・刃の切れ味」という意味がある。 比喩的には「人を刺激する鋭い感覚」が意味するように、仲通りの坂道へのエッジは曲がる度に気分が研ぎ澄まされるのは何故だろう。
元町を特集した季刊「横濱」28号を開くと、エッセイ・記事には”ふんだんに”坂が登場する。歴史を紐解けば、そこにはヒントも隠されていた。開港まもなく、丘の麓には山手の外国人ニーズに応える様々な職人が工房を開いたという。現在も賑わいを見せるこの通りはクラフトマンシップ・ストリートと呼ばれ職人の気迫が坂道へのエッジをさらに鋭くしているように感じる。
坂道の不思議
知り合いの建築家は、特に階段のつくりにこだわっていたのを思い出す。「階から階へ、それは異層空間への旅立ち」だという。いささか難解だったが、確かに坂道にも同じことが言える。坂道は刻一刻と風景が変化していくから不思議だ。
私は上り下り、どちらかといえば上りが好きで、特に急坂はたまらない。上りも下りも坂道へは深呼吸が必要だが、小さな決心みたいな心にどきどきする。上りが好きなのは、坂の途中で足を止めて振り返ると全く別の世界がそこに見えるからだ。
裏元町、店の角を曲がると何時もこのことばが聞こえてくる。今日も坂道が私を誘惑する。
横濱界隈研究家。横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。