YOKOHAMA MOTOMACHI CraftsmanshipStreets

コラム 裏元町HISTORY その5

Craftを巡る言葉の旅

新編武蔵国風土記より横浜村弁天社の図


 開店準備のころ、商店街の通りを歩くと様々な気づきがある。特に裏通りには独特のリズムやサウンドが感じられるから楽しい。近年、デパート(百貨店)に元気がないのは何故だろうと思うことがある。根本的な事由では無いが、デパートは完全に準備が整ってからの入店なので例えれば映画館の幕開きのようだ。一方、街場の店には開店前の様子が伝わってくることが多い。ざわつきのある芝居小屋のような手触りの雰囲気、私はこれが好きだ。
 店先を掃除する、水を撒く。窓を磨く、仕込みの材料が運び込まれる。通りすがりの人の話し声や挨拶が交わされる。これこそがCraft感覚の原点だろう。紐解いてみるとCraft=クラフトの基本には工芸・ものづくりなどを意味する。作り手がこだわって少量生産で作った商品、生み出す技術をクラフト〇〇と呼んでいる。この原点は何か。海村の歴史を紐解きCraftを巡る横浜の旅に出てみたい。

海村のCraft

 横浜史上有数の衝撃となったのが開港であった。開港場が突貫工事で完成と語られ、横浜村民が現在の地に半ば強制的に移住を命じられたが、そこに諍いがあったという記録は見当たらない。村民は粛々と新天地に移ったのだ。この横浜村は江戸期、漁業と農業を併せて生業としていた。農村でもあり漁村でもある半農半漁と一般的に呼ばれるが海とともに生きる「海村」(渡辺尚志)であった。
 近代以降、半農半漁のイメージを重ね”寒村の横浜”と呼ばれて久しい。だが、もし横浜村が寒村というのであれば、江戸近郊の村は殆ど寒村というしかない(斎藤司)。
 江戸名所図会に描かれた洲干弁天や増徳院を維持してきた村の力、ペリーが上陸した駒形近くの良港と水天宮、これらを維持管理してきた村インフラ技能のことを我々は忘れがちだ。
 近世、内湾漁業を営んでいた漁村は漁域、漁法等が規定され今の我々が想像する以上に厳しいルールの下で、しかもチームワークと技術を必要とした中で営まれてきた。水利、土木、農事、農業もしかりである。半農半漁の村には性格の異なる技術の伝承が必須だったと考えられる。必要なものは自らの手で作り保全することで維持された近世の村は多能工の集まりでもあった。現代の様に、分業化ではなく村には”地に添った技術集団”が必要だった。
 その彼らが、ある日突然移動を迫られたが、新しい集落ではこれまで培ってきた技能を活かし、新たな街を造成し、川の向こうに誕生した居留地ニーズに応えることができた。これこそ「海村」のCraft力が温存された結果だろうと私は感じるのである。

Craft Art

 ある辞書には、Craftとは「素材の性質を理解し、それを活かす技術と創造性が求められ、また、伝統的な技術を用いて製作される場合もあり、その地域の文化や歴史を反映することが多い。 」
 美を生み出す力の源泉たる「民藝」を興した柳宗悦は生活美にCraftを重ねた。生活美を提供してくれることこそがCraft Artである。モノに寄りがちだが、買い物、食事、寛ぎ、様々な暮らしの中で人々が生み出すサービスを享受できる幸せな状態こそがCraftの極みだろう。
 開店準備でスタッフが出入りする様(サマ)、店に客が出入りする様、そして閉店でドアが閉じられていく様。漉き上がったざらざらとした和紙のように繊維が絡み合いこれら全てを内包した<なりわい>の美こそがCraftsmanshipなんだろうと思う。

開港直後を想像し描かれた横浜村風景(1909年ごろ)


横濱界隈研究家河北直治

横濱界隈研究家。横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。