YOKOHAMA MOTOMACHI CraftsmanshipStreets

コラム 裏元町HISTORY その6

元町番地考

元町見尻坂風景


坂が元町

 町境を意識したことがあるだろうか。普段は見過ごす町境や番地。元町にはこの町境や“番地”に深い歴史が刻まれているから面白い。
 古い地図を見ると谷戸坂のフランス山側が元町だった時代がある。地番も1番から5番まであり坂の先には船舶信号所(現東洋信号所)が元町だった。
 もう一つ、元町プラザ横から山手側に向かう先に「貝殻坂」と「見尻坂」に分かれ道がある。左手の「見尻坂」の階段を登り切ると左手にアメリカ山、右に外国人墓地へと続く道に出る。ここにはかつて元町の一角が存在したが現在は山手町で多くの通行客で賑わっている。登ってきた急な「見尻坂」階段と木々に囲まれた部分は住居も無く坂道だけなのだが地図には現在も「元町」となっている不思議な場所だ。
 元町は港側から五丁目まであり、地番も割り振られている。番地は数値なので1から始まるのが自然だが、元町にはいくつか欠番がある。例えば一丁目1番地が無く10番まで欠番となっている。
 これには歴史がある。かつて元町に地番が振り分けられた時、谷戸坂の一部、見尻坂の先が飛び地のように元町だった時代があったのだ。逆に元町公園あたりはその昔、山手町だったが現在は元町一丁目となっている。
 昭和初期に複雑な地番を整理した結果、元町1番から10番までを山手町とし逆に貝殻坂、NHK朝の連続テレビ小説「まれ」にも登場した額坂間が元町となった歴史がある。
 この痕跡が元町見尻坂に残されているのだ。

坂道が境

お隣の山手町、山下町には1番地が現存する。山下町1番はかつて居留地1番であり英一番館の石碑が建ち、住所名が変わっただけである。しかも山下町、山手町には丁目区分がない。近代日本が明治初期に初めて<ところ番地>を導入する以前から番地が割り振られていた歴史のなごりが住所に残されているからだ。また関内の“ところ番地”も面白い。街区を通りに沿って背割式で番地が割り振られている。
 元町の場合、地番の不思議は堀川の向こうと丘の上にあった外国人居留地に挟まれていた時代の名残が色濃く残されているからだろう。
 元町は地番のつき方にも違いがある。おおよそ坂に沿って丁目と地番が割り振られている。一丁目は代官坂まで、二丁目が高田坂(百段坂)まで、三丁目が汐汲坂、四丁目は嚴島神社、その先バス通りまでが五丁目となっている。地番もまた坂に沿って割り振られている。坂が街の動脈であり境となった事例である。
 現在も山手町に対して、元町は坂に沿って入り込んでいる。元町と坂は深い関係にあるのだ。※
 もう一つ、戦前、本牧通り西ノ橋を越えた石川町側に元町五丁目190番代が飛び地のように存在した。市電・トンネル開通により道路が拡張されをキッカケに、石川町一丁目となった経緯がある。地番に隠された歴史がここにも発見できる。
 関内外の町内、丁目と番地は別々のところが多い。二丁目1番地、三丁目1番地は無いところが多く地番は連続している。お勧めしないが地番だけでも荷物が届いてしまう。
 開港以来、居留地との関係を知るヒントとして坂と裏元町を歩いてみるのも愉しみの一つだろう。

元町住居表示簡略図




※元町の坂についてはぜひバックナンバーをお読みいただきたい。

横濱界隈研究家河北直治

横濱界隈研究家。横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。