コラム 裏元町HISTORY その7
増徳院余話
増徳院
元町が門前町であった時期がある。
大同年間(806年〜810年)の創立と伝えられ一時期廃れたが、江戸期に中興された「増徳院」だ。当時元町一丁目に位置し元町通りに立つと正面に見える荘厳な寺院だった。
この寺が歴史に登場したのは幕末のことである。横浜に来航した米海軍ペリー艦隊の乗員が病死したために幕府は彼らに墓地を提供することになり増徳院が選ばれた。これがお雇い外国人を含め多くの日本と関わりのある人達の墓地となった「外国人墓地」の始まりである。
増徳院は関東大震災で焼失し現在の地に移転することになったが、同じ境内に祀られていた薬師堂の如来様が奇跡的に無事だったこともありこの地に残されることになった。その後、戦災で失うが戦後に再建され現在に至っている。
御存知の通り、元町は開港のために横浜村の土地の大半を明け渡した代替地であったが、元の地(居留地)にあった観音堂を増徳院境内に移し、開港場に集まった人々の信仰の場として拡大、幕末慶応三年には本堂の大修繕を行って本堂を含め伽藍の佇まいを一新。まさに門前町としても栄えたのである。
さらに明治に入ると、神仏分離が始まったが地域の信仰は厚く横浜最大級の寺院に成長し多くの檀家、参拝者を迎えるようになっていた。
参拝の風景
一枚の増徳院らしき絵葉書と出会った。当初場所の確定ができなかったが、電灯に書かれた「元町一丁目」の文字と門前の形から「増徳院」の東側、正面向かって右に位置する門だと推察できた。境内に入るために多くの参拝者が階段を埋め尽くしているのがわかる。
さて、この混み合っている参拝風景の時期は何時になるのだろうか。多くの人が参拝となると、お正月の初詣が想像できる。ここ増徳院は毎月八日と十二日、晦日の「薬師縁日」で有名だったという。
元町の通りや増徳院の絵葉書は明治大正時代に数多く発売されているが、何故か混み合っている風景が殆ど無い。撮影の都合があったのか、人通りの少ない光景のものが多い。なおさら疑問が深まる。
あらためて増徳院の配置を推測すると、正面に広い階段があり、本堂に向かっている。そして左右に脇階段がそれぞれ一つあり、本堂左手には記録では「杉山弁財天」が祀られていたとあるが薬師堂も左手にあった。
とすると、弁財天も薬師堂も正面左に位置したことになる。では本殿右、右階段を登り参拝する光景は、何なのだろう。
階段上段あたりに独特の笠を被った一群が何か小型の神輿のようなものを運び込んでいる様子が写っている。また階段したでは人力車に近い車が止まっているのが確認できる。周辺の人が被るカンカン帽から時代は大正期かもしれない。
未だ手元にある少ない資料では推測の域を出ない。
ただ、ここに映し出されている参拝の風景はかなり現在とは異なっているので何かおわかりの方はぜひ(編集部まで)お知らせいただきたい。もう一つの元町史が紐解けるかもしれない。
横濱界隈研究家。横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。