YOKOHAMA MOTOMACHI CraftsmanshipStreets

コラム 裏元町HISTORY その9

運河の流れは絶えずして

 現在、代官橋右岸際に一台のクレーンが残されているのをご存知だろうか。首都高速道路工事で、元町が揺れている頃、川と街を繋ぐ装置として設置された。
 かつて港で艀を曳行する動力船のエンジンを修理するために使う予定だった。
 設置後、河岸の役割が大きく変わり取り残されてしまったが、この街が港と繋がる<ものづくり>の精神を感じ取ることができるモニュメントだと私は思う。
 運河の流れが街にもあった時代を振り返ってみた。

前田橋より谷戸橋を臨む


 時は安政六年、外国人居留地へと変貌を遂げた間もない時期に横浜村を割るように堀川が整備された。同時に西、前田、谷戸の三橋が架けられ、当時の人々にはまるで長崎出島を彷彿とさせたようであるが、元村裏の山手には多くの洋館が立ち並ぶことになり出島効果の狙いにはやや疑問が残る。
 むしろ、中村川が時折氾濫した際に横浜新田地区(現在の中華街)から居留地への浸水を緩和するための分水路としての役割が主目的であったのではないかと考えたほうが自然のように思える。
 幕末に誕生した堀川運河は、村を分断した側面はあるものの、一方で水路の整備によって村にも居留地にも大きな恩恵をもたらしたことは間違いない。
 開港場が経済活動の場であった元村にとって、海と接続されていることは大きな強みであった。人とモノの流れは堀川運河の流れに乗って、村の役割をさらに強化したことはその後の繁栄を見れば明らかである。

賑わいの河岸

 当時の堀川の風景に思いを馳せるには、明治期の手彩色の風景絵葉書が最も適している。これらの絵葉書には多くの活気ある堀川風景が映し出されている。様々な種類の船が航行し、荷物の積み下ろしが階段状の護岸を用いて行われている様子が鮮明に写し出されている。この階段護岸は雁木(がんぎ)とも呼ばれ、潮の満干のある水辺では船荷の積み下ろしに不可欠な構造であった。この雁木、運河が整備されて以来戦前戦後と活躍してきたが、高速道路が堀川を覆うようになった際に姿を消した。
 雁木が運河の街に欠かせなかった戦前期の地図を精査してみると、堀川のみならず、中村川、大岡川など、かなり上流域まで百を越える雁木の痕跡を確認することができる。水運が盛んな時代、運河の岸辺に雁木がいかに必需品だったかがよく分かる。大岡川下流域には現在も多くの雁木の痕跡が残され川の履歴を伝えている。

今や元町モニュメント


記憶の彼方

 元町に2カ所の曳舟エンジン補修鉄工所が現役操業中だった80年代は横浜の港の姿が大きく変わろうとしていた時期でもあった。港の物流はコンテナ化が進み艀が消え、河岸の鉄工所も廃業され、川路を利用した高速道路整備が進んだが<クレーン>は残った。
 ちょうどこの頃、全国的なファッションブーム(流れ)を牽引したのが「ハマトラ」(横浜トラディショナル)である。
 そして再び、元町では港に繋がる運河の流れを活かした街が再動する中で、変わらぬモノづくりの気風は水面(みなも)から丘へと吹き抜けていくに違いない。

横濱界隈研究家河北直治

横濱界隈研究家。横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。