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コラム 裏元町HISTORY その1

横浜村の誇り高き百段の思い

百段坂の写真は個人蔵を加工いたしました

百段階段

元町の歴史を語る時に必ず登場する風景が「元町百段」とか「百段坂」と呼ばれていた高低差約23mあまりの急階段の存在だ。この階段、今は無い。
百段の名は堀川に架かる「前田橋」から霧笛楼までを「百段坂通り」と命名されていることくらいで、関東大震災で崩壊した後には再建されること無く記録だけが残り記憶はかなり遠くなってしまった。残された写真から推察するとかなりの勾配であることが判る。一般住宅の場合だが階段寸法は蹴上23cm以下となっているので、概ね百段は妥当な段数である。この階段、101段あると言われているので実際階段写真を引き伸ばしてカウントしたところ微妙だが確かに101段あった。
百段坂、地元の篤志家により作られたという話だが、その動機は不明だ。上に創建された浅間神社詣のための参道なのだが、何故ここに神社を創建したのだろうか?単純に見晴らしが良かったという理由ではどうもしっくりこない。
ここに全くの想像だが、疑問に対して仮説を提示してみたい。

村民プライド

開港以前から、山手の山頂には「大神宮」の存在が地図上に表記されている。明治3年の古地図には、「大神宮」と「浅間社」の両方が表記されている。
では何故二つの信仰施設が作られたのだろうか。
私は、百段坂と浅間神社は、横浜元村村民のプライドとして故郷を眺めるために地元の念願で作られたのだと思う。
ペリー来航によって、開港場となった横浜村村民は強制移転を迫られ多くが現在の元町に移り、分譲住宅のように一定区画に暮らすようになったという。
石川氏、軽部氏、中山氏など村役の説得に応じた結果だろうが、この沙汰には少なからず不満が生じたに違いない。

現在に至る誤解

明治以降、現代まで横浜は「戸数百あまりの寒村」と言われ続けてきたが、この誤解は訂正しておきたい。江戸期の村落規模や村高から横浜村が寒村ならば、日本の村落の大半は寒村だったということになる。さらに付け加えるならば、横浜村は江戸の名所ともなった風光明媚な洲干辨天様を擁し、維持管理することが可能な村だったことは史料から読み取れるからだ。近年減っているが、横浜寒村史観は捨ててほしい。

我がふるさとは眼下に

横浜は開港の舞台となり、ふるさとの田畑、自宅の跡はまたたくまに変貌していった。移住した元村(元町)の前には堀川が開削され、自由に昔の場所に行くこともままならなくなった。
だったら、せめてもの記憶を子々孫々に伝えたい。そう考えた時に、願ったのはかつて我らが暮らした場所を眺める、見下ろすことではなかったか。
そのためには大義名分が必要だった。
結果元村村民は、信仰施設として富士を拝する浅間社と参道としての百段階段を願ったからこそ、思いを叶えられたのではないだろうか。確かに浅間社のあった位置から左手に富士山を見ることができるが、ここに登らなくとも富士山は中村川の先に見ることができた。
開港から十年で明治時代へと時代は急展開する。居留地が不平等条約撤廃で、治外法権から名実ともに横浜関内エリアが開放され、元村から元町となり「百段坂」は記憶の場から観光スポットの性格を強くしていった。
明治後期から大量に発行された「横濱絵葉書」を調べてみると、圧倒的に見上げる構図ばかりで、百段坂上からの見下ろす風景は数が少ない。しかも百段に挑戦する大人の姿が映る写真も少ないものばかり。自由に元横浜村を尋ねることも自由になり、観光客も増えたがさすがに百段登るのは元気な子どもたちばかりになってしまったようだ。
関東大震災は、この坂だけではなく多くの横浜の原風景を変えてしまった。現在、位置は若干異なるが「元町百段公園」に記憶が残されている。ぜひCSにも「百段坂」の記憶を刻んでほしいと願う。

横濱界隈研究家河北直治

横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。
「よこはま路上観察学会」世話人として観察会を開催し、今年で70回を越え100回をめざす。
季刊横濱「大岡川」特集で運河史を恩師斎藤司先生の下で執筆。