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コラム 裏元町HISTORY その2

ウラがウリの時代

二代目横浜駅


 裏というとマイナスイメージの時期があった。近年ウラがウリになっている。これは一時的な流行りなのか、この先続くのか。本来、裏の意味は「人の目から隠れた方の面」だが古代に始まる内裏(だいり)が示すように「すべて物の内側」という意もある。近代以降、表裏は分離してステレオタイプに分けてしまったところから「ウラがある!」といったマイナスな意味合いを持つようになってしまったと思う。
 ウラといえば年配者は「裏日本」を思い浮かべるだろう。裏日本は本州の日本海地域を指し20世紀に登場した近代化の所産としてしばらく影を背負ってきた。近年のウラがウリになってきたのは流行だけではない、本来のウラへの原点回帰ではないかと私は考える。その核心はどこにあるのか、表裏は一体であるということだ。

表裏一体の界隈性

 「表高島・裏高島」という地名が戦前まで横浜に存在した。高島の名は明治期に誕生し皆さんご存知の「高島嘉右衛門」に因んでいる。2022年に150年を迎えた鉄道史に残る鉄路を開拓した人物の名である。高島町は鉄路を挟んで海岸側が表、陸側が裏となった。地理的に見ても内と外の区別に思える。そこには横浜共同電燈会社<裏高島>発電所が建ち、その跡に二代目横浜駅があったことで現在でもその名を記録にとどめている。
 実はこの裏高島エリア、戦後現在の横浜駅周辺が開発され始めた頃、高島通り商店街として賑わったところでもある。横浜駅の表玄関は戦後目まぐるしく変わった。では、ここ裏元町はどうだろう。

水なきところに界隈無し

 地政学的に裏元町のウラたる所以は水場の存在にあったと思う。山手側の斜面からの湧水は、江戸期から元町一帯のライフラインであった。
 何時の時代でもムラ(集落)には水が必要だ。現代は水道システムで至るところに飲料水を運ぶことができるが、文明史的にはつい最近のできごとで、古来水あるところに集落は生まれた。開港した旧横浜村=開港場は明治半ばに近代水道のインフラができるまで水不足に悩み続けていた。当時記録で確認できる水場は<水天宮>と記されているあたりだ。幕府がしっかり運上所をこのあたりに置いているのは単に真ん中だからだけではないだろう。
 元の横浜村と戸部村野毛浦に暮らす人々は昔から<湧水>を活かした暮らしを営んできた。元町の丘に貝塚があったことからも、そこには水がしっかりと有ったことを示している。
 元町の裏通り、野毛川岸には今でも<滾滾と>湧き出る湧水ポイントがある。水道に慣れた現代人はあまり驚かないが、水が湧き出ることは大変なことである。時には霊泉となり、村の安寧を祈る場ともなっているからだ。
 元町公園プールが長らく井戸水で満たされていたことは有名な話だ。元町嚴島神社も海と湧水に深く関係のあるヤシロだ。この湧水の源が山手・本牧の丘陵地の木々であることを時に我々は忘れてしまうが丘の緑被率は保水力であることを忘れてはならない。そして残念ながらこれらの湧水が枯れてもあまりニュースにはならない。

冷水井戸水で有名だった元町公園プール(2017年6月撮影)


水のある暮らし

 その昔どこに湧水ポイントがあったのか?無くなってしまった場所を探るには地元の方々の記憶に頼るしかない。湧水ポイントは地図に乗らないからだ。地形図の高低差を探っても、そこが水の道だ、と探り当てることは至難の業である。
 元町には水を巡って見事な役割分担があるように思う。安政の時代に堀川が開削されることで、元町は細長くなるという宿命を帯びた。背後に山手の丘を背負い、目前に運河が迫る。川岸が水運の道、麓の水源が元町通を支え、いつしか水源の裏通りには後背地としての暮らしが配置されるようになった。クラフトマンシップ・ストリートは裏通りに生まれるべくして誕生したのだろう。

横濱界隈研究家河北直治

横浜路上観察学会世話人。趣味は市内徘徊、市境を川崎市から横須賀市まで三回踏破、市内全駅下車など歩くことが大好き。
「よこはま路上観察学会」世話人として観察会を開催し、今年で70回を越え100回をめざす。
季刊横濱「大岡川」特集で運河史を恩師斎藤司先生の下で執筆。